心が落ち着かない、座っていられない?まずは「信」から始めよう

初めて静坐(瞑想)に挑戦した多くの人が、同じ悩みにぶつかります。座ってほんの数分で、頭の中が止まらなくなるのです。仕事のこと、家のこと、さっきの会話のこと……。静かになろうとすればするほど、かえって落ち着かなくなってしまいます。 私たちはつい、やり方や姿勢が間違っているのだと考えがちです。しかし、七十年以上前のある訓文は、まったく別の答えを示しています。本当の土台は技術ではありません。それは「信」なのです。

2/1/20251 min read

silhouette photo of man on cliff during sunset
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心が落ち着かない、座っていられない?まずは「信」から始めよう

呂祖の訓文をやさしく読む

初めて静坐(瞑想)に挑戦した多くの人が、同じ悩みにぶつかります。座ってほんの数分で、頭の中が止まらなくなるのです。仕事のこと、家のこと、さっきの会話のこと……。静かになろうとすればするほど、かえって落ち着かなくなってしまいます。

私たちはつい、やり方や姿勢が間違っているのだと考えがちです。しかし、七十年以上前のある訓文は、まったく別の答えを示しています。本当の土台は技術ではありません。それは「信」なのです。

この訓文について

本文は、道院(どういん)に伝わる『聖哲嘉言録』(せいてつかげんろく)に収められたもので、孚聖(ふせい)が庚寅年九月初八日(西暦1950年10月18日)に降された訓示です。

孚聖とは、よく知られた呂祖・呂洞賓(りょそ・りょどうひん)のことです。中国の民間で広く親しまれている「八仙」の一人であり、道家の内面修養の伝統において大切な祖師として敬われています。千年以上にわたり、その教えは心と本性を養い、人々に善を勧めることを中心としてきました。

原文は古典中国語(漢文)で書かれています。以下は私たちによる、わかりやすい現代語での解説です。さまざまな背景をもつ読者の皆さまに、何かを持ち帰っていただければ幸いです。

冒頭の八句:修行の地図

志端信正立修基,智慧诚明性不移。
炁气浑融观自在,居仁宏道期匡时。
澄清念虑葆玄根,镇定本为不二门。
月影梅华悟动静,盈虚消息个中存。

やさしい日本語にすると、おおよそ次のような意味になります。

正しい志とまことの信が、修行の土台をつくる。
智慧と誠と明るさがあれば、本性は揺るがない。
内なる気が一つに溶け合えば、心は自在となり、
仁に住み、道を広め、世を正すことを願う。
乱れた思いを澄ませ、奥深い根を守る。
静かな落ち着きこそが、唯一の門である。
月の影と梅の花に、静と動を悟る。
満ちては欠け、来ては去る――すべてはここにある。

正しい志とまことの信念は、あらゆる修行の土台です。智慧があり、誠実な心をもっていれば、周りの出来事に簡単には揺さぶられません。心と体が調和すれば、自然と穏やかでいられます。そして心に優しさがあれば、世の中のために何か良いことをしたいと思うようになります。

散らかった思いを少しずつ鎮め、自分の中のいちばん本当の部分を守りましょう。静かな落ち着きこそが、内なる平安へと続く唯一の門です。月の影が移ろい、梅の花が咲いては散るのを見つめれば、静と動、満ちることと空(から)になることの自然な道理がわかってくるでしょう。

一、なぜ「信」が必要なのでしょうか?

この人生で、私たちは誰もが何かを成し遂げたいと願っています。仕事、家庭、そして良い人柄。

どこまで進めるかは、方向がはっきりしているかどうかで決まります。そして方向がはっきりしているかどうかは、心の中に揺るぎない「信」があるかどうかにかかっています。

昔から「信なくば立たず」と言われます。ここでいう「信」とは、ただ何かの考えを信じることではありません。それは心の中の確かさです。自分の歩む道を信じること、善い行いには善い結果が返ってくると信じること、そして真心からの努力は決して無駄にならないと信じることです。

二、「信」はどこから生まれるのでしょうか?

「信」は、何もないところから突然生まれるものではありません。訓文は、はっきりとした筋道を示しています。

· 揺るぎない「信」は、智慧から生まれます;

· 智慧は、礼(れい)から生まれます。礼とは、日々の暮らしの中での節度や心づかいのことです;

· 礼は、義(ぎ)、つまり正しく道理にかなったことに沿っていなければなりません;

· そして義の源は、仁(じん)、つまり優しく、人を思いやる心です。

つまり、すべては優しい心から始まります。優しさがあるから、物事に節度が生まれます。節度が明るさをもたらし、その明るさが「信」を確かなものにするのです。

正しくあれば、平らかでいられる。平らかであれば、定まっていられる。

心が正しければ、穏やかになります。穏やかであれば、落ち着いていられるのです。

三、続けること、それが「信」の姿です

「業は勤むるに精しく、嬉ぶに荒む」(业精于勤而荒于嬉)

「技は勤勉さによって磨かれ、怠けることで荒れてしまう」という、よく知られた言葉です。訓文はさらに一歩踏み込みます。

勤勉さは、「信」がしっかり集まっている証です。怠けることは、「信」が散らばっている証です。

静坐も同じです。たまにしか座らなければ、深まっていくのは難しいでしょう。毎日続ければ、たとえ十分間だけでも、心は少しずつ落ち着いていきます。

たった一言、小さな一つの行いでも、着実に、心を込めて行えば、それが「信」を育てる修行になります。

四、自然に学ぶ

訓文は、二つの美しい例を挙げています。

· 月は、毎月決まった時に満ち欠けし、決して間違えることがありません;

· 潮は、毎日決まった時に満ち引きし、決して約束を破りません。

これが天地の「信」です。規則正しく、安定していて、途切れることがありません。

私たちの修行も、月や潮のようであればいいのです。一気に先へ進もうとする必要はありません。ただ、毎日いつものように続けていけばよいのです。

五、言葉と行いが一つであること、それが本当の修行

「言は忠信、行いは篤敬」(言忠信,行笃敬)

言葉には誠実さを、行いには真面目さと敬いの心を。

人の修養は、最後には言葉と行いに表れます。立派なことを言うのは簡単ですが、それを実行するのは難しいものです。その人の行いが着実かどうかを見れば、その言葉が誠実かどうかがわかります。

修行は座布団の上だけで行うものではありません。日々の一言一行の中にもあるのです。

六、二つの「信」

訓文は、「信」を二つの段階に分けています。

真理を信じる:智慧によって人生の道理を理解し、わかったからこそ固く信じる。

因果を信じる:善い思いが善い結果をもたらすことを人生の経験から実感し、感じたからこそ固く信じる。

どちらから始めても、それは正しい道です。方向さえ正しければ、道に迷うことはありません。

七、「努力」から「自然」へ

「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」(知之者不如好之者,好之者不如乐之者)

訓文は、この古い言葉からさらにもう一歩進みます。楽しむことでさえ、無理なく自然にそうしていることには及ばないのです。

静坐を始めたばかりの頃は、少し努力が必要かもしれません。やがて、それが好きになっていきます。そしていつの間にか、呼吸のように、生活の中の自然な一部になっていくのです。

そして、そのすべての土台にあるのが、一点の疑いもない「信」です。

八、内側から外側へと「正す」

ここは、静坐にとって訓文の中でいちばん参考になる部分です。

静坐で心の平安を得たいと願いながら、大切な順序を見落としている人は少なくありません。訓文はこう指摘しています。

感情を正す → 思慮を正す → 念を正す → 心を正す → 体を正す

· まず、感情を穏やかにします;

· 感情が穏やかになれば、思慮が澄んできます;

· 思慮が澄めば、念(ふと浮かぶ思い)が清らかになります;

· 念が清らかになれば、心がまっすぐになります;

· 心がまっすぐになれば、体も自然と安定します。

逆に言えば、感情がまだ波立っているのに、いきなり呼吸を整え、心を静めようとしても、うまくはいきません。

静坐のときは、「静かになろう」と焦らなくて大丈夫です。まずは感情を落ち着かせることから始めましょう。

九、自分を育て、人を温める

心が落ち着き、言葉と行いが一致している人は、自然と周りの人に良い影響を与えます。

自分に誠実であり、人にも誠実に接する。自分が安らぎを得たら、その安らぎを人にも分かち合う。訓文はこれを「人己両渡」(じんこりょうと)と呼んでいます。自分を成長させると同時に、他の人も助けることです。

これこそが、修行のいちばん美しい姿です。

初心者のための五つのヒント

1. まず信じる心を育てる:静坐が心と体に良いと信じることで、続けることができます。

2. まず感情を落ち着かせる:座ったらすぐに「無になろう」とせず、まず気持ちを静めましょう。

3. 毎日少しずつ:大切なのは続けることで、一度に長く座ることではありません。

4. 修行を日常に持ち込む:正直に話し、着実に行動すること、それも修行です。

5. 自然にまかせる:無理をせず、人と比べず、安らぎが自然に訪れるのを待ちましょう。

さらに深く:同修の皆さまへ

以下は、より深い修行に関わる内容で、道院の同修の皆さまのご参考としてお届けします。

· 「炁气浑融」(二つの気が一つに溶け合う):原訓では、「炁」は生まれながらにもつ根源の生命エネルギーである先天の炁を、「気」は生まれてから呼吸や食べ物によって取り入れる後天の気を指します。この二つが溶け合うことは、坐功が深まってきた証です。ただし、その前提は、乱れた思いが澄んでいることです。

· 「未能正其心,而欲灵凝气充,不可得也」(心がまだ正されていないのに、霊が凝り気が満ちることを望んでも、得られない):原訓は、魂を清め魄を伏し(魂清魄伏)、霊を凝らし気を満たし、炁をめぐらせ息を平らかにし、さらには神明に通じようとするなら、まず身・心・念・慮・情を正すことから始めなければならないと強調しています。修行の順序を逆にしてはなりません。

· 「必正、必定、必信、必修」(必ず正し、必ず定め、必ず信じ、必ず修める):原訓はこの四つを修行の土台としています。毎日の坐功の前に、自らを振り返る指針として使うことができます。

· 「渡修时期」(人を渡す修行の時期):原訓の最後の部分では、人己両渡と実践に励むことが、この修行の段階の要であると述べ、同修それぞれが深く参究するよう励ましています。

出典:道院『聖哲嘉言録』、孚聖(呂祖)訓、庚寅年九月初八日(西暦1950年10月18日)。本文はわかりやすい現代語による解説であり、参考としてお読みください。

初めて静坐に触れる方も、長年修行を続けている方も、ぜひ当センターにお越しいただき、私たちと一緒に静坐をいたしましょう。