ずっと祈っているのに、なぜ応えがないの?済公が語る「感応」
こんな経験をしたことのある人は多いでしょう。心を込めて拝み、何度も何度も願う。昼も思い、夜も夢に見る。けれども年月が過ぎても、何の応えもないように思える。そして心の中に疑いが生まれます。「私の誠がまだ足りないのだろうか?神さまには聞こえていないのだろうか?」 六十年以上前のある訓文は、この問いに意外な答えを示しています。問題は「誠」が足りるかどうかではなく、私たちが何を求めているのか、にあるのかもしれません。
2/1/20251 min read
ずっと祈っているのに、なぜ応えがないの?済公が語る「感応」
済公活仏の訓文をやさしく読む
こんな経験をしたことのある人は多いでしょう。心を込めて拝み、何度も何度も願う。昼も思い、夜も夢に見る。けれども年月が過ぎても、何の応えもないように思える。そして心の中に疑いが生まれます。「私の誠がまだ足りないのだろうか?神さまには聞こえていないのだろうか?」
六十年以上前のある訓文は、この問いに意外な答えを示しています。問題は「誠」が足りるかどうかではなく、私たちが何を求めているのか、にあるのかもしれません。
この訓文について
本文は、道院(どういん)に伝わる『聖哲嘉言録』(せいてつかげんろく)に収められたもので、済仏(さいぶつ)が戊戌年四月二十三日(西暦1958年6月10日)に降された訓示です。
済仏とは、よく知られた済公活仏(さいこうかつぶつ)のことです。もとは南宋時代の高僧・道済禅師(どうさいぜんじ)で、破れた帽子に破れた扇、細かいことにはこだわらず、一見すると風変わりで狂ったようにも見えました。しかし実は大きな慈悲の心をもち、各地で貧しい人や弱い人を助け、人々を導きました。その物語は中華圏で広く親しまれ、「酒肉は腸を通り過ぎても、仏は心の中に留まる」という言葉とともに、多くの人の心に生き続けています。
原文は古典中国語(漢文)で書かれています。以下は私たちによる、わかりやすい現代語での解説です。さまざまな背景をもつ読者の皆さまに、何かを持ち帰っていただければ幸いです。
冒頭の四句:小舟に酔い伏す賢者
禅機渾化入真清,醉臥扁舟任縱横。
感応無形昭普渡,光輝虚室通神明。
この四句は、次のように読むことができます。
禅の智慧がすっかり身につくと、清らかな本来の心へと還っていきます。まるで小さな舟に酔って横たわり、波のまにまに、自由自在に漂っているかのよう。これはまさに、済公の飄々とした姿そのものです。
感応(かんのう)は、目にも見えず、手にも触れられませんが、確かにすべての人々を救い、助けています。心がからっぽの部屋のように、がらくたが積まれていなければ、光が差し込み、人は神仏と通じ合うことができるのです。
一、人を助ける二つの道
訓文の冒頭は、人々を導くには二つの道があると述べています。
· 目に見える道:慈悲の心で道理を説き、人にわかってもらうこと;
· 目に見えない道:感応によって通じ合い、人に実感してもらうこと。
道理を説く人がいなければ、人は修行しようという心を起こしません。感応の体験がなければ、人は真理の奥深さを本当に感じ取ることができません。一方は「わかること」、もう一方は「感じること」。二つは互いに支え合っているのです。
二、感じれば、必ず応えがある
感応のあり方はさまざまで、私たちが想像するとおりとは限りません。
· 目に見えないところで感じたことが、目に見える出来事として応えられることもあれば;
· 目に見える出来事で感じたことが、目に見えないところで応えられることもあります;
· ここで感じたことが、まったく別の場所で応えられることもあります。
しかし、一つだけ確かなことがあります。感じるところがあれば、必ず応えるところがある。
何かを感じると、心が「動き」ます。心が動くと、ほんの小さな兆しが現れます。昔の人はこれを「幾」(き)と呼びました。吉凶や幸不幸は、たいていこの小さな兆しから始まります。だからこそ、心にふと浮かんだばかりの思いに気づくことが、あとから取り繕うよりもずっと大切なのです。
三、心の「動き」には七つの種類がある
済公は、心の「動き」を七つに分けています。
1. 天理の動き:良心や正しい道にかなった思い;
2. 人欲の動き:私心や欲望から生まれる思い;
3. 自然の動き:自然の流れにまかせて起こる変化;
4. 受け身の動き:外の出来事に引っぱられて起こる反応;
5. 霊体の動き:霊性そのものから湧き起こる心の動き;
6. 識界の動き:心の奥深くに潜んでいる習気(くせ)。今でいう潜在意識に近いもの;
7. 動かざる動き:心が静かな水のようで、意図せずとも自然に通じ合う状態。
難しいのは、これらの「動き」がしばしば混ざり合っていることです。まっすぐな真心からの思いが、ときに私欲と絡み合うことがあります。清らかに見える状態が、実はただのふつうの自然な反応にすぎないこともあります。
訓文によれば、私欲からの思いは、修養さえあればまだ気づくことができます。しかし霊体や潜在意識のレベルの動きは、修養があってもときに見分けがつかなくなることがあります。
四、いちばん大切な問い:私の心は鏡のようか?
思いを見分けるための鍵は、自分自身の心にあります。訓文はいくつかの問いを続けて投げかけています。毎日、自分に問いかけてみる価値のあるものです。
· 私の心は、鏡のように澄んで明るいだろうか?
· この思いが頭から来たものだとしたら、私の頭の中に私欲はないだろうか?
· この思いが霊性から来たものだとしたら、それは本当に自然で清らかなものだろうか?
修養がまだ純粋でないうちは、心にも、頭にも、霊にも、正しそうに見えて実は違うものが紛れ込んでいます。自分をはっきりと見るには智慧が必要で、それ以上に、長く続ける鍛錬が必要なのです。
五、見分けたあとは、どうするの?
思いが浮かんだら、まず自分に聞いてみましょう。これは天理だろうか?私欲だろうか?霊性だろうか?それとも潜在意識のくせだろうか?はっきりと見分けたら:
天理にかなうものは、伸ばしていく。天理にかなわないものは、溶かして手放していく。
言うのは簡単ですが、実行するのは簡単ではありません。なぜでしょうか?訓文ははっきり言います。人はとかく私欲を好むものであり、天理はしばしば私欲と正反対だからです。
いちばん見分けにくいのは、潜在意識のくせです。それは体の中に潜んでいて、機会があればすぐに顔を出します。理屈の上では筋が通っているように思え、気持ちの上でも何もおかしいと感じません。知らず知らずのうちに起こるので、まるで無心で、欲もなく、自然に生まれたもののように見えます。しかし、実はそうではないのです。
だからこそ、修養はかけがえのないものなのです。
六、静坐と道理、どちらも欠かせない
修養について語るだけでは役に立ちません。本気で取り組むにしても、少しかじっただけでやめてしまっては実を結びません。訓文は、はっきりとした道筋を示しています。
まず静を学ぶ → 私欲を溶かす → 澄んだ明るさを取り戻す → 見る目が磨かれる → 惑わされなくなる
· まず、静かになることを学びます;
· 静けさの中で、私心や貪り、むやみな欲求を少しずつ溶かしていきます;
· すると、もともと心にある澄んだ明るさが現れてきます;
· 澄んだ明るさが現れると、物事を見る目がどんどん確かになっていきます;
· その確かさがあれば、物欲に振り回されることも、欲の迷いに惑わされることも少なくなります。
ここまで進むには、本当に静坐を実践することが欠かせません。道理を知っているだけで修練をしなければ、欲はやはり隙を見て入り込んできます。静坐だけして道理を学ばなければ、遠くへは進めません。理論と実践、どちらも欠かすことはできないのです。
訓文はさらにこう教えています。静坐を続けながら、経典や訓文をよく読みなさい。ときに、ぱっと目の前が開けるように理解が深まり、進歩も早くなります。その恵みは、心と体の健康だけにとどまりません。
七、世俗の楽しみには、大きな代償がある
世の中の多くの人は、環境に縛られて、修行の本当の喜びを味わうことができません。もちろん、世俗にも心をときめかせるものはあります。頭のよさや才能から得られる満足、見たり聞いたりする好きなものからの刺激、華やかでぜいたくな暮らしの楽しみ。
これらは一時の喜びをもたらしてくれますが、知らず知らずのうちに心身のエネルギーをすり減らしていきます。そのために病気になる人も、実はたくさんいるのです。
八、ずっと祈っているのに、なぜ応えがないの?
ここは、訓文全体の中でいちばん考えさせられる部分です。
「自分が求めるものは、必ず手に入るはずだ」と考える人がいます。拝むときも誠実でないわけではなく、祈りも切実でないわけではありません。昼も忘れず、夜は夢にまで見て、来る年も来る年も、来る日も来る日も願い続けます。それでも応えはありません。そこで、「きっと私の誠がまだ足りないのだ」と言うのです。
しかし済公は指摘します。これは「感応」を誤解しているだけでなく、「誠」という字の意味もわかっていないのだ、と。
「心誠にこれを求むれば、中らずといえども遠からず」(心诚求之,虽不中,不远矣)
これは儒教の古典『大学』の言葉で、本当に真心から求めれば、完全に的に当たらなくても、それほど外れることはない、という意味です。「感じれば必ず応えがある」というのは、そのとおりです。ただし、その前提として、自分が求めているものが天理なのか、それとも私欲なのかを、はっきり見分けなければなりません。
本当の「誠」とは、必死に求めることではありません。自分の心と思いを、正しい道にかなうものにすることなのです。
九、心と心が通じ合う秘密
感応は、人と神仏とのあいだだけで起こるものではありません。人と人とのあいだでも起こります。私の心が感じたことは、ほかの人の心の中で応えられることがあり、ほかの人の心が感じたことも、私の心の中で応えられることがあります。
心が澄んで生き生きとしていなければ、感じることができません。感じることができなければ、応えもありません。すべては、心が光に満ちているかどうかにかかっています。
自分の霊性を、仙人や仏さまの霊性と通じ合わせることができれば、自然と感応が起こり、さらには先のことを知ることさえできるといいます。「仙人になりたいと願えば仙人になれ、仏になりたいと願えば仏になれる」という言葉がありますが、その道理は本当にそのとおりです。ただ、そこまで修めるのが簡単ではない、というだけなのです。
訓文の最後の一言を、すべての読者の皆さまにも贈ります。「望むらくは、各々これに勉めよ」(望各勉之)
初心者のための五つのヒント
1. 思いの小さな兆しに気づく:思いが浮かんだ瞬間に気づくほうが、あとから取り繕うよりずっと簡単です。
2. 「これはどんな種類の思い?」とよく問いかける:良心からか、それとも私欲からか。見分けてから、伸ばすか手放すかを決めましょう。
3. まず静かになることを学ぶ:毎日たとえ十分でも静坐をして、心を少しずつ澄ませていきましょう。
4. 学びと実践を両立させる:静坐の合間に経典も読みましょう。どちらも欠かせません。
5. 祈る前に自分に問う:私が求めているものは、正しい道にかなっているだろうか?それは「誠が足りているか」よりも大切なことです。
さらに深く:同修の皆さまへ
以下は、より深い修行に関わる内容で、道院の同修の皆さまのご参考としてお届けします。
· 「幾者動之微,吉凶所以顕現也」(幾とは動きのかすかな兆しであり、吉凶はここから現れる):原訓は「幾」を感応の要(かなめ)としています。心の動きが現れたら、まずそれがどの種類の動きかを見極めること。これは、坐功の中で心の思いを観察する際の入り口とすることができます。
· 「識界潜蔵於体魄之内,遇機而発」(識界は体魄の内に潜み、機会に応じて現れる):原訓は、識界の動きは「理によって審べれば通じるようにも見え、情によって言えば背くところもない」と指摘しています。魂が知らず知らずのうちに動き、魄に乗じられるため、最も見分けにくいのです。無為に動き、無欲に現れたように見えるものが、必ずしも本当の自然の動きとは限りません。
· 「知其理論而無実功,則魄仍可伺隙而動」(理論を知っていても実際の修練がなければ、魄はなお隙をうかがって動く):原訓は、坐功と理論のどちらも欠かしてはならず、坐功を進めるなかで経典と訓文を詳しく参究すべきであると強調しています。
· 「不霊不感,不感不応,均在霊台是否光明」(霊ならざれば感ぜず、感ぜざれば応ぜず。すべては霊台が光明であるかどうかにかかる):原訓は、霊台(心の奥の霊性の座)の光明を感応の根本としています。自らの霊を仙仏の霊に通じさせてはじめて、「動かざる動き」において感応し、自然の霊体が先のことを知ることができるのです。
出典:道院『聖哲嘉言録』、済仏(済公活仏)訓、戊戌年四月二十三日(西暦1958年6月10日)。本文はわかりやすい現代語による解説であり、参考としてお読みください。
初めて静坐に触れる方も、長年修行を続けている方も、ぜひ当センターにお越しいただき、私たちと一緒に静坐をいたしましょう。
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